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同盟プロフィール |
同盟の名前 | 戦の勝敗より友情を…「大谷吉継」 |
開設日 | 2010年01月14日 |
管理人 | 蒼穹楓@蜻蛉切を詠う |
ジャンル | 学問・研究 |
参加人数 | 48人 |
公開レベル | 誰でも見れる |
参加資格 | コスプレイヤーとユーザー |
参加方法 | 自由参加 |
同盟の紹介 |
正史面から、戦国武将「大谷吉継」が好きな方の同盟です。
出典が、ゲーム・アニメ作品の場合、こちらとは別に作品名で同盟を立ち上げてくだされれば幸いです。
・大谷吉継の勉強をしている ・大谷吉継の義の心・行動に感動している ・大谷吉継と石田光成の男の友情に感銘した
などなど、大谷吉継が好き、勉強してみたいという方のご参加をお待ちしております。
※大谷吉継の簡単な紹介※
・永禄2年1559年(1565年という説もあり)近江の国の生まれ。(現在の滋賀県) ・天正元年頃、秀吉の小姓となり、寵愛を受け、 本能寺の変(天正10年、1582年)後、力をつけてきて、 賤ヶ岳の戦いで活躍、 天正17年、役職に就く。この頃、家紋を対い蝶に変えている。 天正14年には石田光成と九州征伐に出ており、 天正17年にはついに越前の国(現在の福井県)の敦賀城の城主になり、5万石を与えられた。水軍も編成された。 天正18年には小田原の役に続いて東北地方の奥州仕置にも従軍した。 同じ年の6月には秀吉の命で、明(当時の中国)への和平交渉に渡海し、明から大きな評価をもらっている、官位も受けた。 秀吉からも賞賛を得ており、自邸に招待した際、贈り物に対し、秀吉より、太刀を頂いている。
いよいよ関が原の合戦が起きそうというとき、大谷吉継は石田三成と徳川家康を仲直りさせようと行動したが、既に親友であった石田三成から徳川家康に対し、挙兵をしないかと持ちかけられる。これに対して大谷吉継は、3度にわたり、 「無謀であり、三成に勝機なし」 と説得したが三成の固い決意を知り熱意にうたれ、敗戦するだろうと予測しつつも息子達も一緒に連れ、三成の西軍に与した。 その後、調略で、諸大名らを味方に引き入れ、 9月に石田三成の要請を受け、諸将を引き連れ、関が原の戦いに参陣した。 しかし当時既に大谷吉継はハンセン病(当時の言葉で癩病(らいびょう))にかかっており、馬に乗ることも鎧を着ることももう不可能だったため、輿に載り、白い衣装の上に鎧の絵を描いたものを着て、参戦した。 大谷吉継軍の戦ぶりは、裏切った小早川秀秋の1万5千の軍を3度、山へ追い返したという猛者ぶり。 しかし、味方の東軍への寝返りにより、横槍を受け、そして4面全てを敵に囲まれ、壊滅に至った。 負けを感じた大谷吉継は自害。首は部下によって埋葬されたため、敵にとられることはなかった。
辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」、1600年10月21日没。42歳。
(補足:三成が秀吉の部下になったいきさつ:三成は、もとは、寺に預けられた身であったが、若き頃の秀吉がその寺に参った際、茶を頼まれたところ、最初はぬるいお茶を湯のみいっぱいに、2杯目を頼まれたところ、先程より少し熱くしたお茶を量を減らして、3杯目は、熱いお茶を少し、と秀吉のことを思ってだしたところ、秀吉が大変気 に入り、小姓にし、寵愛し、部下になった)
以下は逸話ですが、非常に有名であり、石田三成への義のきっかけともなった話なので、書いておきます。
三成と吉継は裏切りの多い戦国時代には珍しい深い友情の間柄で、美事と思われたり、衆道関係であったのでは、という記録もある。
二人の絆がより強固なものになったのは秀吉のお茶会でのことである。 ある日、行われた茶会に、既にハンセン病をわずらっていた吉継は、顔が崩れており、とても人に会える状態ではないと、茶会の欠席を願い出ていたが、秀吉のどうしても、という誘いを断れず、白い布を顔に巻いた状態で参加。当時、ハンセン病はうつり病と思われていたため、参加者の皆が彼を避け、彼の隣には座らなかった。そこに到着した三成、彼は吉継の隣に誰も座ってないのを見ると、躊躇することなくそこに座った。そしてお茶会が始まり、お椀が回された。吉継の番になったとき、ポチャッとお椀のなかに、彼の鼻水(膿という説も)が入った。会場はどよめいた。「あれを飲むのか?…」吉継は、あまりの羞恥に、身を固くして、とても苦しい中耐えていた。その様子を見ていた三成は、さっとお椀を取ると、躊躇することなく、その鼻水の入ったお茶を全て一気に飲み干した。そして、臆することなく気軽に話しかけてきたという。
その時の三成にの行動に感謝・感激した吉継は、以後、友と呼び合うほどの仲となり、「何があっても、一生この人に付いていこう」と固く決意したといわれている。
以上、簡単に、といいましたが、長くなってしまいました、全て詠んでくださった方ありがとうございました。 |
ご注意! |
誹謗中傷を書き込むことは絶対なさらないでください。 ハンセン病は、現在研究が進んでおり、治療法もあり、感染力も非常に弱い病気です。歴史書にある表記をそのまま引用しましたが、決してハンセン病や患者様を差別するつもりではありませんので、どうかご了承ください。ハンセン病患者様のご地位奪還と国への賠償要求等がよい方向へ向かうことを切に願っております。 |
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