オープン初期の真新しい東京ビッグサイト。まだ臨海高速鉄道(りんかい線)の駅からの屋根付き通路が無い。
毎年秋に盛り上がりを見せる東京ゲームショウは、それまでファンによる一方的な愛情表現だったコスプレを、メーカー側が広告や販促の手段として積極的に利用するようになるという、幸福な相互関係が成立した場所でした。 現在まで続く、メーカーとコスプレとの相互関係をうまーく作ったのも、TGSという場の果たした役割は大きいと思います。 今回はそのゲームショウを、90年代ゲームジャンルの隆盛と共に、まるっと振りかえってみたいと思います。
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オープン初期の真新しい東京ビッグサイト。まだ臨海高速鉄道(りんかい線)の駅からの屋根付き通路が無い。 |
■創成期〜見本市の中のファン活動 1996年、秋…。 バブル崩壊後の長期低迷期、「失われた10年」。あらゆる物が売れなくなっていくデフレスパイラル渦中にあって、しかし、ゲーム業界は確実に成長を続ける数少ない世界でした。 ゲーム史的に見れば、長く続いたスーパーファミコン時代がリメイク版ドラクエ3によって有終の美を飾り、次世代機戦争としてプレイステーションとセガサターンがデッドヒートを繰り広げていた頃です。 と言っても、サターンは美少女PCソフトの移植版が(PC-FX経由で)多数流入した事で「ギャルゲー専用マシーン」に傾きつつあり、翌97年に向け「FF7」「バイオハザード」の発売が控えていた事で既にプレステ時代が近づきつつあったのですが。
こういった時代背景で、同年に設立されたCESA=コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会(経産省の特例社団法人)主催の形で始まった東京ゲームショウ=TGSが、従来の見本市イベント(東京おもちゃショーなど)と大きく異なっていた点は、最初から“ファンによる同人誌やコスプレ”活動を公認し、むしろコンテンツ(悪く言えば、見世物)として位置づける事で、有効活用を狙っていた事です。 それまでにもメーカーごとの小規模なイベントや格闘ゲーム大会でのコスプレ参加者は若干存在しましたが、オープンしたてのビッグサイトを使用して主要メーカーが勢揃いするTGSは、規模が全く違う新世界でしたから。
まず一つは、TGS会場内での同人誌即売会。 今じゃ考えられませんが、初期TGS会場内には同人誌即売会が併催されていたのです。ホント。サークルカット掲載パンフがフルカラーという豪華仕様で。ゲームジャンルがコミケなどでも新興かつ確固たる勢力を築いていて、コミックライブではゲームジャンルに特化した「ゲームコミケ」なんて開催していたくらい、ゲーム同人誌は熱い時期でしたが…。 権利元のメーカーと、あくまでファンによる二次創作の同人誌サークルが同じ会場に入っていたというのは、それまで聞いた事がありません。非常に斬新な試みでした。 しかし18禁描写がアウトで少数のサークルしか参加してない即売会では、オタク層にも魅力は無く、一般層から見たら同人誌は単価が高い割によく分からない内容だったでしょう。 この同人誌即売会の企画は、ごく初期のみで消滅しました。それで良いと思います。
もう一つ。コスプレ歓迎と、コスプレ1000人パレード。 最初からTGSには更衣室が用意され、コスプレに対して寛容でした。今でこそアニメジャパンやキャラホビなど、権利元とコスプレイヤーが混在する大型イベントは珍しくありませんが、当時はコスプレ可の大型イベントはコミケとワンフェスくらいでしたし、ましてや企業の見本市で権利元のゲームメーカーが出展している前でコスプレ出来るというのは、エポックな出来事だったのです。 「本当にいいの?もしかしたらゲームクリエイターの人が見てるかもしれない前で、堂々とコスプレで歩けるの?」みたいな。 最初期は会場内でのパレード企画がありまして、1000人のレイヤーが集まって会場内をパレードする…というものでしたが(実際にはせいぜい数百名程度)、コスプレに興味無い人や、急いで移動中の人にとっては通行の妨げになってしまうので、このパレード企画もすぐに無くなりました。
しかし、TGSが最初期から、コスプレをコンテンツとして捉えていた事は、非常に先見の明があったと思います。 コスプレイヤーを積極的に参加させて、それを名物にする事で、コスプレしたい人/見たい人を呼び寄せるという、二重の集客効果を発揮しました。 レイヤーにとっても、コスプレできる大型イベントが限られていた時代、関東ではTGSがコミケとワンフェスに並んで、三大イベントの一角と見られるようになります。
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