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【大切なこと】「○○に行け
「好きな作品の上映を求める
映画館で観る理由は「高い・
信頼と表現の自由を守るため
「デジタルタトゥー」とは何
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【大切なこと】「○○に行け」と言われた知人のことについて
引用元: カラカス
ぼんちのマッキー
2025年07月09日 21:10
今回は、コスプレや表現活動に関わる皆さんへ、大事な話として書きます。やや重たい内容を含みますが、ご容赦ください。

最近、SNS上で私の知人に対し、「ベネズエラのカラカスで活動しろ」「ハイチに行けばいい」「コスプレしたら殺される」など、極めて悪意の強い投稿がいくつかありました。

こういった投稿を見て、私は悔しさと怒りと、何より深い悲しみを感じました。

なぜなら、
それは「活動するな」「消えろ」と言っているのと同義だからです。



相手の表現活動が気に食わないからといって、
「治安の悪い国へ行け」
「命の危険がある場所に行け」
と書くのは、冗談でも風刺でもありません。

それは明確な「暴力的な言葉」です。



さらに、「中東」「アフリカ」「中南米」の国名を引き合いに出して嘲笑する形は、
そこに生きている人々や文化への無理解・差別にもつながります。

私はこれまで、様々な国のレイヤーさん・アーティストさんと交流してきました。
場所や言葉が違っても、表現への想いは同じです。だからこそ、
「海外=危険=行け」などという雑で軽薄なレッテル貼りには、断固としてNOを突きつけます。



知人は、コスプレや創作を通じて何かを表現しようとしています。
たとえ未熟でも、不器用でも、自分なりに何かを伝えたいという気持ちがあります。
それを足蹴にするような「悪意の連投」に対して、私はどうしても黙っていられませんでした。



この世界には、いろんな考えの人がいる。
だけど、「誰かの表現を封じ込めてやろう」という態度だけは、私は絶対に許容しません。

あなたが何を好きで、どこで活動して、何を表現するかは、
「あなたが決めること」です。

「好きな作品の上映を求める」ことは、ごり押しではない
引用元: ごり押しは良くないよなあ。
ぼんちのマッキー
2025年07月09日 19:14
「好きな作品の上映を求める」ことは、ごり押しではなく市民の文化的権利の主張である。

「とある魔術の禁書目録」の劇場版上映を求めたことが「ごり押し」だと非難されていますが、それは極めて一面的な理解です。

まず前提として確認したいのは、私は映画館関係者に対して暴言や脅迫、組織的な嫌がらせなどを一切行っていないという点です。
私はただ一人の市民として、正当な表現の範囲で上映リクエストを行い、地方における上映格差を訴えただけです。



1. 「上映を求める声」は民主的表現

映画館は民間事業者である一方で、地域住民の文化的なアクセス権に深く関わる公共的性格を持つ施設です。
その施設に対して「この作品も上映してほしい」とリクエストすることは、「ごり押し」などではなく、住民による正当な文化的要望の表明に他なりません。

むしろ、
• 声を上げた人を「迷惑」呼ばわりする
• 地域に文化的機会を求めること自体を「自己中心的」とする

このような姿勢こそ、民主的で開かれた社会に反する非寛容な態度ではないでしょうか?



2. 「地方だから後回しでいい」という差別感覚

「うちの地元でも2、3か月遅れはザラ」とのご意見もありますが、だからといって何も言ってはならないのか?
私が抗議したのは、「遅れ」ではなく、「そもそも上映されない」こと、そして「全国で上映されているのに宮崎だけが排除された」という明確な不平等構造です。

しかも、カンボジアや東南アジアの地方都市でさえ日本のアニメ映画が上映されているのに、日本国内で観られない都市があるという異常事態なのです。

これはただの「アニメ好きのわがまま」ではなく、地方における文化機会の不在・不均衡に対する重大な問題提起でした。



3. 誹謗中傷と正当な批判を混同してはならない

「2ちゃんねらー呼ばわりされた」ことを非難されていますが、私が批判したのは、匿名掲示板で行われた人格攻撃や作品蔑視、レッテル貼りの言動です。
映画の上映を求めただけで人格を攻撃される社会のほうが異常ではないでしょうか?

むしろ、「この人が原因で上映中止になった」と言い切るほうが、因果関係の歪曲・名誉棄損に当たる可能性すらあります。



4. 「謝罪せよ」という前に、問うべきは地域文化のあり方

私は、自分の要求が通らなかったからといって、上映館を荒らしたり、誹謗中傷を加えたりするようなことは一切していません。
むしろ「なぜこの地域だけが文化に冷たいのか」「なぜ他県で普通にできていることが、宮崎ではできないのか」を問うてきました。

謝罪を求めるべき相手は、映画の文化的価値を軽視し、地域住民にその体験すら与えなかった体制そのものではないでしょうか?



【結び】

「ごり押しではないか」と言われても構いません。
しかしそれは、文化を愛し、地域の未来を信じ、誰かが声を上げなければ何も変わらないと信じた者の叫びでした。

それを「迷惑」と切り捨てる社会に、希望の灯は灯らない。

映画館で観る理由は「高い・安い」ではない。
引用元: 今は配信サイトがあるだろうに。
ぼんちのマッキー
2025年07月09日 19:04
ご指摘の「映画館は高い、配信で見ればいい」という意見は、確かに一見もっともらしく聞こえます。しかし、それは本質的な問題を見誤っています。

まず、私は単に『とある魔術の禁書目録』をスクリーンで見たいから上映を求めたわけではありません。問題の核心は、宮崎という地域が全国で上映されているアニメ映画をことごとく上映せず、「観られない町」になっていたという、異常な状態にあります。

これは「貧しいから配信で我慢しろ」という次元の話ではなく、文化へのアクセス権の欠如であり、地方の若者が育たない構造的損失です。

1. 映画館の存在は地域文化の柱

配信サイトは「代替手段」であり、映画館の「代用」にはなりません。映画館は、
• 映像と音響のスケール
• 観客との一体感
• 社会的・記憶的イベントの場
として、若者の感性を育て、地域コミュニティの文化基盤を支えます。

2. 地元にないということは、地元に「未来の選択肢」がないということ

かつて私は、宮崎から福岡まで往復4000円の深夜バスでアニメ映画を観に行った経験があります。これは「配信で我慢できないオタクのエゴ」ではなく、夢や感動を得る機会が自分の町に存在しない現実への抗議です。

東南アジアの地方都市――例えば、カンボジアのプノンペンやベトナムのホーチミンには、シネコンがあり、日本のアニメ映画が上映され、若者が感動しながら育っています。
なぜ日本の地方・宮崎がこれに劣るのか? これは「高いか安いか」ではなく、国際的にみて異常なまでの文化後進状態なのです。

3. 「貧しいなら文化をあきらめろ」という暴論

「お金がないから配信でいいだろ」というのは、文化や感性、創造性を金銭価値で測る発想であり、あまりに短絡的です。
むしろ地方こそ、映画館のようなリアルな文化体験の場を整備することで、地元に根差した文化と雇用、地域活性化の核を育てていくべきなのです。



【結論】

劇場版『とある魔術の禁書目録』を「宮崎の映画館で観たい」と求めたことは、文化の誇りを取り戻す行為です。それはスクリーンで観たいという欲求のみにとどまらず、宮崎が「日本で唯一観られなかった」という屈辱に抗議し、若者が夢と共に生きる地域を取り戻す闘いでした。

高いか安いかではありません。
それは「この町で夢を見られるかどうか」の問題なのです。

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